高槻の見どころ(とその周辺)を実際に歩いてレポートする「たかつき散歩」。今回は、高槻市の桜スポットであり、たくさんの鯉のぼりが空を彩るイベント「こいのぼりフェスタ1000」の開催地でもある「芥川桜堤(さくらづつみ)公園」から、JR高槻から見て北側・山手にあたる西真上(にしまかみ)町、真上町、月見町、天神町の住宅街を歩きながら、5つの寺院(真如寺・地蔵院・慈願寺・霊松寺・廣智寺)を巡りました。
実は筆者は、前回のたかつき散歩、江戸時代に栄えた西国街道・芥川宿(あくたがわしゅく)の歴史スポット巡り から続けて歩いているため、今回は駅ではなく芥川桜堤公園からのスタートとなっていますが、半日ほどの散策を楽しみたい方は、JR高槻駅から出発する前回レポートもぜひご覧ください。
ちなみに前回は、JR高槻駅から約1km歩けばすべてのスポットを巡ることができましたが、今回は約3kmほどの道のりで5つの寺院を巡ります。
それでは、ひとつひとつご紹介していきますね。
芥川桜堤公園(あくたがわさくらづつみこうえん)
芥川桜堤公園は、その名の通り、堤防に沿うように桜の木が立ち並ぶ河川敷公園です。筆者が散策した日は桜も満開に近く、遊歩道をのんびり歩きながら花見を楽しむ人の姿が多く見られました。夏には川遊びをする家族の姿も見られ、一年を通じて市民に親しまれています。
上の写真は、西国街道にかかる芥川橋付近から撮影したもの。桜や公園で子どもたちが遊ぶ姿を眺めながら次の橋(門前橋)まで歩くと、川が二手に分かれます。
左手に曲がるのが芥川本流、右手は水路のようにも見える真如寺川が流れています。今回最初に訪れる最初の寺院、真如寺(しんにょじ)は、この川沿いにあります。
真如寺(しんにょじ)
真如寺は浄土宗に属し、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊(ほんぞん)とするお寺です。江戸時代の元文年間(1736~1741年)頃に起きた芥川の氾濫で寺伝が流出したため、創建時期は不明ですが、1528年(享禄元年)と伝えられています。また、この地は近世(安土桃山時代~江戸時代)高槻藩領※にあり、歴代藩主に大切にされたといわれています。
※藩領とは、1万石以上の大名(藩主)に幕府から与えられ、統治・支配した領地のこと。
筆者が境内に入って感じたのは、本堂前の庭の美しさと心地良さでした。参道脇にさまざまな植物が植えられているお寺は多くありますが、新緑も芽吹きはじめた頃だったこともあり、とくに印象に残りました。また、高さ20mはありそうな大きなイチョウの木もあり、葉が色づく秋にはまた違った景色が楽しめそうです。

ところで、その本堂の前には、松尾芭蕉の句「雲雀(ひばり)鳴く 中の拍子や 雉子(きじ)の声」が刻まれた句碑があります(上写真の右下)。この句は「ヒバリがさえずる春の日、その鳴き声に合いの手を入れるように、キジが拍子をつける」という春の情景を詠んだもの。筆者が訪れたときには鳥の鳴き声は聞こえませんでしたが、春の日にこの句を知ったタイミングの良さを感じつつ、次のスポットへと向かいました。
※余談ですが、この句碑を見たとき、「なぜ芭蕉の句碑がここにあるのか?」「芭蕉が真如寺に立ち寄ったのか?」と気になりましたが、真相はわからないようです。ただ、芭蕉の句碑は本人が訪れた確証のない場所にも建てられている例があり、真如寺が特別に珍しいわけではなさそう。松尾芭蕉(1644~1694年)が亡くなり350年以上経った今でも句が残っているのは、ひとえにその作品の魅力と、それを慕う人々の存在があってこそ。筆者はこの句碑もそうした人々の想いによってつくられたのかもしれない…と思ったりしました。
地蔵院(じぞういん)
真如寺から地蔵院への道中は、今回巡った道中でもっとも距離のある区間でした。地蔵院は小高い丘にあるため、住宅街の坂道を上っていくのですが(そして本堂の前の階段もあるのですが)、登りきった先には見晴らしのいい景色が広がっていました。
本堂前の階段(参道)から撮影
地蔵院は、奈良時代の名僧・行基(ぎょうき)が開いたと伝わる、真言宗大覚寺派の寺院です。地蔵菩薩を本尊とし、摂津国八十八ヶ所第48番札所にもなっています。境内には、高さ約4.8mの五輪塔(ごりんとう※)や300体以上の石地蔵がまつられています。
※五輪塔は、古くから墓や供養塔として使われている塔のひとつで、四角・丸・三角・半円の石の上に先が少し尖った丸い石の順番で積み上げられている。

大きな五輪塔も300体以上のお地蔵さんも、筆者は他の寺院で目にしたことはありますが、高槻の、しかもこのような丘の上にあるとは思わず驚きました。訪れた際には、ぜひご覧ください。
慈願寺(じがんじ)
地蔵院を後にして、次に向かったのは慈願寺です。

慈願寺も創建時期は不明ですが、寺伝によれば聖徳太子が開いたとされ、当初は天台宗に属していたといわれています。しかし安土桃山時代に入ると、キリシタン大名として有名な高山右近ら高山氏の兵火によって堂宇(どうう/寺院内の建物の総称)が焼失※。その後、江戸時代に再興され、1739年(元文4年)に曹洞宗に改宗しています。
※高山右近は領内に20以上の教会を建てるなど布教を精力的に進める一方で、仏教寺院の破却や移転も行っており、慈願寺は被害を受けたといわれています。

慈願寺周辺は「慈願寺樹林保護地区」として高槻市の樹林保護地区に指定されており、住宅街を歩いてきた筆者にとって、緑に囲まれた境内は心が和む空間でした。お寺のホームページによると、春は桜、夏は睡蓮、秋は紅葉、冬は南天・万両と、四季折々の草花が楽しめるとのこと。筆者が訪れた日にも境内の桜を眺める方がいらっしゃったので、地元の方々には親しまれれている様子がうかがえました。
また、慈願寺の門前にある案内板によれば、この一帯にはかつて前方後円墳や円墳が多く存在し、神獣鏡(しんじゅうきょう)やガラス小玉、埴輪片(はにわへん)などが出土しているとのこと。1820年(文政3年)には、お寺の西側の山中で木櫃(もくひつ/箱)が発見され、その中から光銅製墓誌(こんどうせいぼし)と人骨が見つかりました。墓誌は銅板の表裏に鍍金(ときん/めっき)が施され、130字の銘文と唐草(からくさ)模様などが線彫りされた精巧なもので、その銘文から被葬者は奈良時代の貴族・石川年足(いしかわとしたり)であることが判明。この墓誌は当時の墓制を知る貴重な史料として、1952年(昭和27年)に国宝に指定されています。
霊松寺(れいしょうじ)
次に訪れたのは、先にご紹介した地蔵院と同じく、行基(ぎょうき)が開創したと伝わる霊松寺です。現在は、十一面観音を本尊とする曹洞宗のお寺ですが、寺伝によれば、当初は牛飼山地蔵院という名でした。
霊松寺と称されるようになったのは、1412年(応永19年)。曹洞宗の禅僧・無月妙応禅師(むげつみょうおうぜんじ)が老松の下から現れた黄金仏を本尊の胎内に納め、本堂などを再興した際に名も改められました。

戦国時代には、芥川城主として畿内で勢力を誇った三好長慶一族が霊松寺を庇護し、長慶の嫡男(ちゃくなん/正妻との間に生まれた長男)・義興(よしおき)の墓があります。1558年(永禄元年)には、正親町(おおぎまち)天皇の勅願所(ちょくがんしょ/時の天皇や上皇の命令(勅願)により、国家の安全や皇室の繁栄を祈願する格式高い寺院)になりました。その後、兵火によって焼失しましたが、江戸時代に本堂や庫裏、山門など再建されています。境内や墓地には、室町から江戸時代にかけての歴代高槻城主の墓があり、高槻の歴史深い関わりを持つお寺といえるでしょう。
筆者が霊松寺で印象に残ったのは、上の写真にある参道(坂道)の上りの石柱(写真中央)には「ねがひ坂」、下りは「かなへ坂」と刻まれていたこと。その由来や時期はわかりませんが、「また坂道を上がるのか……」と感じていた筆者にとっては、どこか励まされるような思いでいっぱいになりました。
本堂の裏手から道路を渡った先には墓地があり、その一角に三好長慶の子・義興(よしおき)の墓があります。
廣智寺(こうちじ)
5つの寺院を巡る今回のたかつき散歩も、いよいよ最後の訪問先、廣智寺です。

廣智寺は、Google Mapを見ただけでは場所がわかりにくく、筆者は一度通り過ぎてしまいましたが、上の写真の階段(マンション横)を上った先にあります。

寺伝によれば、聖徳太子自らが観世音菩薩像を造り、堂宇(どうう/寺院内の建物の総称)を建てて創建したと伝えられています。慈願寺や霊松寺と同じように、兵火によって焼失しましたが、観音像は里人(さとびと/一般の民間人のこと)の手によって守られたといわれています。
その後、1661年(寛文元年)、宇治の萬福寺の建立、高槻(富田)の普門寺(ふもんじ)の造営で知られる、臨済宗黄檗派(おうばくは)の僧・龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)によって再興されました。本尊の多臂観世音菩薩立像(たひかんぜおんぼさつりゅうぞう)は平安時代につくられた木像仏で、その希少性から大阪府の有形文化財に指定されています。仏像ファンの方々のブログなどのよると、事前に連絡すれば、本堂にまつられている観音像を拝観できた…という例もあるようですので、興味のある方はぜひ問い合わせてみてくださいね。
今回のレポートは、できるだけ丁寧に紹介しようとした結果、やや長文となりましたが、いかがでしたでしょうか。高槻市内を散策していると、高槻には古墳もあるし、西国街道が通っているし、長い歴史の積み重ねの上に現在があることを実感しますが、今回5つの寺院の歴史に触れたことで、その想いはいっそう深まりました。
ではまた、次のたかつき散歩でお会いしましょう!














