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たかつき散歩⑥:西国街道・芥川宿周辺の歴史スポットを巡りました。

高槻の見どころ(とその周辺)を実際に歩いてレポートする「たかつき散歩」。今回は、JR高槻駅の北側(北西)に位置し、かつて西国街道(さいごくかいどう)の宿場町として栄えた芥川宿(あくたがわしゅく)エリアに行ってきました。

西国街道は、京都から下関・九州までをむすぶ江戸時代の幹線道路。その起源は、平安時代よりさらに前の律令時代(奈良時代)までさかのぼり、古くは山陽道といわれ、北九州の防衛にあたった防人(さきもり)、大宰府へ向かう菅原道真が歩いたといわれます。芥川宿は江戸時代に発展し、現在のJR高槻駅北口から徒歩約5~10分ほどにありますが(現・芥川3丁目~4丁目)、19世紀の天保年間(1830~1843年)の最盛期には、33軒の旅籠(はたご:旅館)が軒を連ねていたといいます。

芥川宿絵図(部分)。1734年(享保19年)に作成された絵図で、摂津国芥川宿(現在の大阪府高槻市芥川町周辺)の町並みが描かれている。出典:高槻市ホームページ(西国街道と芥川一里塚)https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/4555.html

今回は、最もわかりやすい道順だという、JR高槻駅北口から左手に見える「アクトアモーレ/アル・プラザ高槻」の中を通り抜け、左手にある「芥川商店街」から芥川宿へ向かいました。

全長200メートルほどの商店街を抜けると西国街道に到着。商店街の突き当たり、左右に走る道が西国街道です。商店街を抜けると右手に郵便局、左手に下写真「芥川仇討の辻」と書かれた看板が見えます。

芥川仇討(あだうち)の辻

この看板は、江戸時代初期に起きた「仇討ち」の内容が書かれています。誤解を恐れず簡単に説明すると……、石見国吉永藩(現・島根県太田市南部)で、2人の若侍が子どもを取り合う揉めごとがあり1人が殺された。殺された方の子どもは剣を学んだ後、敵を探しまわり、2年半をかけてようやく見つけ出し仇討ちを果たした。一方、殺された者は懐に手紙を携えていて、「私は罪人なので殺されて当然の身。殺した人を咎めないで」という旨を書いていた……というもの。

この仇討ちは、「遺恨の連鎖に終止符を打つ」という珍しい仇討ちだったことから、双方が当時の武士道のモラルを貫いた美談として喧伝され、江戸時代の後期に出版された『続近世畸人伝(ぞくきんせいきじんでん)』などの書物にも残っているとのこと。ちなみに、大衆文学最高峰の賞「直木賞」の由来となっている作家・直木三十五も、この出来事を下地にしたとされる『芥川虚無僧記』という小説を発表しています。

西国街道に突き当たって早々、「仇討ち」という歴史を感じさせる物語に触れましたが、ここから西国街道を西(左手)へと道なりに歩いて、周辺スポットを巡ります。

仇討ちの看板から、100メートルも歩かないうちに見えてきたのが「芥川一里塚」です。

芥川一里塚(いちりづか)

一里塚というのは、江戸時代、街道を歩く人々の目印として設けられたもので、一里(約4km)ごとに両脇に塚(土盛り)をつくり、一般的には榎(えのき)が植えられました(祠(ほこら)のあるところも多いそうです)。かつては道の両側にあった一里塚も、現在は片側を残すのみとなりましたが、この一里塚は地域の人に大切に守られ、大阪府の史跡に指定されています。

現在、芥川一里塚には地域の人が大切にしてきたという三宝荒神(仏・法・僧の「三宝」を守護する日本独自の仏教神であり、火と竈(かまど)の神様として知られる)の祠があり、ちょうど筆者が訪ねたときには、お参りする人もお見かけしました。

さらに街道の西へと向かうと、古風な町屋がちらほらと現れます。

かつては町屋が並んでいたこの地も、現在は昭和~平成にかけて建てられたであろう建物の方が多いのですが、こうして格子の立派な町屋を見ると、その昔、旅人が行き交っていた頃の芥川宿の名残が感じられますね。

西国街道をさらに進み、少し路地を入ったところにあるのが、教宗寺です。

教宗寺(きょうそうじ)

教宗寺は、1287年(弘安10年)に開かれた、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊(ほんぞん)とするお寺。先にご紹介した江戸時代の「芥川宿絵図」にも描かれています(一部が見切れてしまっていますが、左上に描かれています)。絵図を見ると、多くの家が「草」葺き屋根のところ、教宗寺は「瓦」葺き屋根で描かれており、立派なお寺だったことがわかります。

現在もその頃の趣きを残すという境内には、本堂、庫裏(くり/僧侶が生活する居住空間、または食事を準備する台所を指す)、鐘楼堂(しょうろうどう)などのほか、花崗岩をくり抜いて作られたという石槽も。石槽の底に水抜き穴があることから、石風呂として利用していたともいわれており、大阪府の有形文化財に指定されています。

筆者が教宗寺に入って驚いたのは、門をくぐってすぐに見える松の木が、龍のようにうねっていたこと。地面に近い部分は樹皮だけになっているのに、支柱に支えられた木はまだまだ力強く葉が茂っていて威厳が感じられました。

芥川宿水門跡・愛宕燈籠(あたごとうろう)・子宝地蔵尊

教宗寺から西国街道に戻り、さらに進むと坂道が見えてきます(下写真)。ここが宿場町・芥川宿の西の入り口にあたります。この先には芥川という川が流れているのですが、芥川は川底が高い(地面より高い)天井川なので、川にかかる橋に近づくと坂道になるのです。(地元に暮らしていると当たり前の光景ですが、関西は天井川が多いようですよ。)

天井川は大雨が降ると氾濫を起こしやすいため、芥川宿には増水時に浸水を防ぐための水門がありました。上写真の右手、石垣に左右に挟まれて建つ石柱(下写真)、反対側のコンクリートの塀に残る石柱は、その水門跡です。

石柱には縦に溝が入っていますが、ここに止水板をはめて浸水を防いだようです。筆者は地上にある水門というのを初めて見ましたが、みなさんはいかがでしょうか?

冒頭でご紹介した、江戸時代に描かれた『芥川宿絵図』には、芥川橋とともに水門と考えられる石柱が描かれているということ。当時と同じ石柱かどうかはわかりませんが、300年ほど前の姿を伝えていると思うと歴史を感じますよね。水門が使われなくなって久しいですが、芥川宿の名残を残す遺産として、散策の際はぜひご覧ください。

ちなみに、この水門跡の手前には、地蔵堂があります。この地蔵尊の脇には、愛宕灯篭(あたごとうろう)という石造りの灯篭があるのですが、愛宕灯篭は、火伏せ(防火)の神様として知られる愛宕神社(京都市右京区の愛宕山に総本宮があります)の信仰により建てられた常夜灯のこと(京都をはじめ、関西では街道沿いや集落で見られるそうです)。火の神様を祀るだけでなく、防火や道しるべの役割も果たし、地蔵堂とともに配置されることが多いそうです。

かつて、この地域(旧坂口町、現在の芥川町4丁目付近)には愛宕講(あたごこう)という組織があり、この地蔵堂は1822年(文政5年)に建てられたといいます。お堂には3体の地蔵菩薩が祀られているのですが、中央には子どもを抱いたお地蔵さんがおられます。お地蔵さんは数多くあれど、子どもを抱いているのは珍しく、この地域では「子宝地蔵尊」と呼び、子宝や子育てにご利益があるといわれてきたそうです。

橋詰(はしづめ)地蔵尊・神峯山寺(かぶさんじ)道標

「子宝地蔵尊」から目と鼻の先、水門跡の脇には、もう一つの地蔵尊「橋詰(はしづめ)地蔵尊」がいます。(橋詰とは、橋の終わる場所、橋のたもと、きわの意味。)子宝地蔵尊は芥川宿の中(水門の内側)にありましたが、橋詰地蔵尊は芥川宿の外(水門の外側)。芥川の水門近くにあることから、悪霊などの侵入から宿場を守る道祖神の役目を果たしていたと伝えられています。

地蔵尊の横には、日本最古の毘沙門天霊場として知られる「神峯山寺(かぶさんじ)」へ続く古くからの道標も。神峯山寺の本尊、毘沙門天(びしゃもんてん)は、商売繁盛にご利益があるとされ、古くから多くの参拝者がありました。神峯山寺へのルートはいくつかあるのですが、淀川の河港・三島江浜から神峯山寺への参詣道(さんけいみち)には16基の道標があり、ここはそのうちの1基です。(1809年(文化6年)に大坂の商人・赤松由永(あかまつよしなが)が寄進したという記録が残されています。)

神峯山寺に参拝に来た人の中には、芥川宿に立ち寄ったり、宿泊した人もおられたかもしれませんね。芥川橋から景色を見ながら、そんなことを想像したりしました。

今回巡ったスポットを、Google Mapにまとめましたので、散策の際はご利用ください。

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